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伊吹(いぶき)は、日本海軍の巡洋戦艦、鞍馬型巡洋戦艦の二番艦。伊吹型装甲巡洋艦の一番艦として扱われることもある。 == 艦歴 == 元々巡洋戦艦鞍馬と完全な同型艦として計画されたが、起工直前に戦艦安芸とともにタービン搭載に改められ、設計に時間を要し起工は遅れた〔『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』pp.121-161。〕。 1907年に呉海軍工廠第三船台で戦艦安芸の次に起工され、進水した〔。輸入したカーチスタービンの到着が安芸用より先になったため、蒸気タービン機関の試験艦としての性格を兼ねることとなった〔。 戦艦安芸がまだ呉海軍工廠第三船台で建造中に特命検閲があり、井上良馨元帥が小幡文三郎造船部長に「主力艦は、予算に制限がなければ何ヶ月で進水できるか」と尋ね、小幡は「6ヶ月」と即答した〔。小幡にはほんの2-3年前に「4ヶ年」と称し、多忙な戦時下に戦艦筑波を実際に1ヶ年で進水させた実績はあるもののこの回答に工廠長、検閲使ともに驚いたのだが、小幡は造船先進国イギリスが試験艦であった戦艦ドレッドノートを特急工事で仕上げて4ヶ月で進水しているのを見て「英国が4ヶ月ならわれは6ヶ月でできるであろう」と考え、すでに工程まで検討済みであった〔。伊吹の起工式の日小幡は工員全員を集めて「今度の艦は今から正味6ヶ月で進水する。しかも日曜や休日は、決して出業しない。また残業もしない。いっさい実時間の作業である。責任は私が持つ。今日はよぶんの加給をつけてあげるから、諸君はいまから帰宅し、風呂にはいって一杯やりたまえ。そのかわり明日からしっかり全力をあげて作業せよ。お金は仕事をしただけ余分にあげる」と訓示し、実際伊吹は6ヶ月で進水した〔。 就役も鞍馬や安芸より先となり、結果主力艦としてイギリス戦艦ドレッドノート等に次ぐ早い時期のタービン搭載艦となり、これはアメリカ合衆国、ドイツ、フランスに先んじ、日本海軍がタービン機関採用に積極的であったことを示す証拠とされる〔。 当初一等巡洋艦(装甲巡洋艦)に類別されたが、1912年に巡洋戦艦に変更された。 ラーマ6世の戴冠記念観艦式に参加するため、1911年にタイを訪問している。 第一次世界大戦では、インド洋まで進出して通商保護に従事した。その後シベリア出兵の支援に用いられたが、ワシントン海軍軍縮条約により廃棄が決定し、1923年から翌年にかけて解体され、主砲は、津軽要塞・豊予要塞に転用された。 1925年に通商保護をした縁で伊吹の縮小模型が日本政府からニュージーランド政府に寄贈された。この模型は現在ニュージーランド国立博物館テパパに収蔵されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊吹 (巡洋戦艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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